
東京オリンピックと「コカ?コーラ」第4回 あの「傑作ポスター」はいかにして生まれたか

コカ虫蹿蹿65;コーラ社はアムステルダム1928オリンピック以来、90年もの长きにわたり、オリンピックのワールドワイドパートナーを务めてきました。もちろん、东京1964オリンピックもサポートしましたし、2年后に控える东京2020オリンピックも、さまざまな形で大会をサポートしていきます。
本连载「东京オリンピックと『コカ虫蹿蹿65;コーラ』」では、东京2020オリンピックに向けて、东京1964オリンピックに関わった方々への取材をもとに当时の记忆をたどり、次大会へと繋がる“何か”を探しています。
第4回は、エンブレムと公式ポスターのデザインを手がけたグラフィックデザイナー亀仓雄策さんのエピソードを振り返ります。
虫蹿蹿08;连载第1回はこちら)
文虫蹿蹿1诲;野地秩嘉
「コカ?コーラ」と亀仓雄策の意外な関係
亀仓雄策は日本デザイン界の巨人だ。代表作は1964年虫蹿蹿08;昭和39年虫蹿蹿09;の东京オリンピックのシンボルマーク虫蹿蹿08;エンブレム虫蹿蹿09;と4枚の公式ポスターである。オリンピックのポスターでは1966年のポーランド国际ポスタービエンナーレで芸术特别赏を受赏している。他にも大公司のコーポレートマークや、グッドデザイン赏のマークなど、彼が手がけた作品の多くが现在もなお残っている。
そんな亀仓が败戦后、デザインを勉强するために収集したのがアメリカのデザイン雑誌とタバコやチョコレート、口红などのパッケージデザインである。なかでも、彼が意识していたグラフィックデザイナーがアメリカ人、レイモンド?ローウィだった。それ以前にはフランスのカッサンドルというグラフィックデザイナーが亀仓のあこがれだったが、実作に取りかかった后はローウィの作品の影响が感じられる。
ローウィは着书『口红から机関车まで』の书名通り、口红から冷蔵库、バス、蒸気机関车、大统领専用机のエアフォースワンまでをデザインした男だった。加えて、ローウィは「コカ虫蹿蹿65;コーラ」の业务用クーラーボックスやデリバリートラック、ソーダファウンテン虫蹿蹿08;カウンター形式の喫茶店虫蹿蹿09;用ディスペンサーも手がけている。つまり、亀仓が制作した奇跡のポスターの基础になっていたのがローウィのデザインだったとも言えるわけだ。
そして、败戦后の日本にあふれていたのは「コカ虫蹿蹿65;コーラ」であり、「コカ虫蹿蹿65;コーラ」の明るく、あか抜けたデザインだった。亀仓自身は「コカ虫蹿蹿65;コーラ」を爱饮したとは言えないが、亀仓デザインに影响を与えていたのは「コカ虫蹿蹿65;コーラ」と縁が深いレイモンド?ローウィだったのである。
「戦前から现在までを含めて、最高の杰作ポスター」
昭和30年代当时、グラフィックデザイナーは今ほど世间に知られた职业ではなかった。「図案家」と呼ばれ、デパートのチラシを作る人といったイメージだったのである。だが、亀仓が発表した东京オリンピックのエンブレム、ポスターはグラフィックデザイナーの仕事を天下に知らしめた。図案家という古臭いイメージを振り払う大杰作だったのである。
彼がまずデザインしたのはエンブレムだった。开催を4年后に控えた1960年、一流デザイナー6人によるコンペが行われたが、亀仓案を见た审査员たちは一目见て「これにしよう」と决めている。真っ赤な丸印に金色の五轮を组み合わせたシンプルな意匠だったが、强い造形と鲜烈な色彩は他の追随を许さないものだった。

东京1964オリンピックのエンブレム
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続いて、彼は公式ポスターの制作に临んだ。公式ポスターの第1号はエンブレムを拡大したバージョンで、完成は1961年2月。続いて、第2号から第4号までの公式ポスターを1年ごとに発表する。一度にすべてを见せなかったのは、国民のオリンピックへの関心を徐々にかきたてようという亀仓の提案だった。
2号ポスターから4号ポスターまではいずれも写真を使っている。当时のオリンピックのポスターとしては考えられない冒険的なデザインだった。そのことについて、亀仓はのちにこう语っている。
「あのポスターのことだけれど、僕は最初から写真でいこうと决めていた。それまでのポスターは下手な画家が描いたポスターだ。それでは迫力が出ない。写真しかない。そして、写真でいくならばカメラマンは早崎虫蹿蹿08;治虫蹿蹿09;くんしかいないと思った」
亀仓が「あのポスター」と言ったのは、陆上のスタートダッシュをとらえた第2号ポスターのことだ。
デザイン界の长老、永井一正は「戦前から现在までを含めて日本のグラフィックデザイン史上、最高の杰作ポスター」と言った。それほど、谁もが见覚えがあるものなのだ。

东京1964オリンピックの公式ポスター第2号
デザイン虫蹿蹿1诲;亀仓雄策、撮影虫蹿蹿1诲;早崎治、フォトディレクション虫蹿蹿1诲;村越襄
画像提供=アフロ
30テイクの末の“奇跡”
さて、亀仓は陆上ポスター制作に际して、ライトパブリシティというプロダクションからディレクター、写真家を抜擢した。彼自身はライバル会社虫蹿蹿08;日本デザインセンター虫蹿蹿09;の専务だったのだが、クリエイティブの力を持つ人间を使いたくて、日本デザインセンターを退职し、ポスターの制作に赌けた。そこまで制作に打ち込むのが亀仓雄策だった。
彼は抜擢した二人に细かい指示を出した。
「オレはこう言った。『スタートダッシュの瞬间を长ダマ虫蹿蹿08;望远レンズ虫蹿蹿09;を使って撮れ』『観客席を写すことはないぞ』。だから、彼らは望远レンズで夜间撮影をしたんだが、当时はまだストロボが少なかったでしょう。ずいぶんと苦労したと闻きました」
その二人、早崎治と村越襄がスタートダッシュの写真を撮影した场所は、神宫外苑の旧国立竞技场だった。
撮影の日时は1962年の3月31日。早崎はライトパブリシティのアシスタントカメラマン3名を连れて行き、夕暮れから夜まで、6人の陆上竞技选手に30回以上もスタートダッシュを繰り返させ、どうにか思い通りのカットを撮ることができた。撮影したフィルムは助手が保管して、翌日、银座の「スポット」という现像所に持ち込んだ。
そして、スポットから届けられた撮影フィルムとそれからの成り行きをライトパブリシティのオフィスでじっと见守っていたのが、同社で働いていた细谷厳虫蹿蹿08;现同社会长虫蹿蹿09;だった。
细谷は次のように思い出す。
「撮影の前日、フォトディレクターの村越さんは一生悬命、スケッチを描いていました。亀仓先生はああやれ、こうやれと言うのだけれど、口で言っただけではカメラマンにイメージは伝わりません。それで、村越さんが早崎カメラマンに渡して説明するための精密なスケッチを描いていたんです。村越さんは弟が银座で画廊をやっていた人で、絵が上手でした。その人が何枚も何枚も下図を描いていたのを昨日のことのように覚えています」
现像フィルムが届けられる朝、早崎と村越の二人はそわそわしていたという。
细谷は続けた。
「午前中に现像が上がってきました。早崎さんと村越さんは朝早くから会社にいて、いらいらしながら待ってました。届けられたらすぐに、二人はライトテーブルの上にポジフィルムを载せてルーペで见ていました。颜色が変わっていくのを横で见ていました。
『これじゃダメだ』。『再撮するしかないな』。あきらめきっていましたね。僕の机は村越さんの隣ですから、二人が话していることは全部わかったんです。
夕方になって、亀仓先生がやってきました。先生はあいさつもそこそこにライトテーブルにどっかと座りました。そこにあった写真をさっと见て、1枚だけ、ピンと横にはねました。
『これだ』
ひとこと、そう言いました。私も见せてもらったのですが、先生がはじいた1枚の6×6ブローニー版フィルムの端っこにすばらしくいい瞬间が小さく映っていたんです」
亀仓は数多くのフィルムのなかから、スタートした直后のカットを选んだ。一方、现场に行った二人は「スタートの瞬间そのもの」の写真を探していたのである。亀仓はスタートそのものよりも、走り出した时の写真の方が力感が伝わってくると思い、それを选んだ。
「早崎さん、村越さんは见逃していたんですね。横にいたふたりは大きく、うん、これだと一绪に頷いていました。伟かったのは亀仓先生です。さすが先生は见逃さなかった。横で见ていた二人は亀仓先生のおかげで、不安が消し飞んだようでした。
あの时の东京オリンピックが成功したのはあの第2号ポスターがあったからですよ。亀仓先生は同じ二人と水泳、圣火ランナーを撮った第3号、第4号のポスターも作りました。でも、悪いけれど比べものになりません。あの陆上のスタートダッシュの紧张感に胜てるようなポスターはあれから后も1枚もありません。奇跡のポスターなんです」
印刷にもこだわり抜き、ようやく完成
话はライトパブリシティの现场に戻る。
亀仓は取り上げた1枚の写真に指定を付けて印刷所に送った。むろん、印刷方法にもこだわった。
「印刷はグラビア虫蹿蹿08;虫蹿蹿0补;1虫蹿蹿09;の多色刷りです。あの顷、大きなポスターをグラビアの多色刷りで印刷できる会社は大日本と凸版しかなかった。僕はグラビアでやりたいと言った。オフセット虫蹿蹿08;虫蹿蹿0补;2虫蹿蹿09;だとピカピカ光って、重みがない。一方、グラビア印刷でやればインクが肉厚だからしっとりして见える。ぼくがどうしてもグラビアだと言ったら、凸版の社长が『亀仓先生、カネがかかります。勘弁してください』と何度も言うんだ。それで僕はこう话をした。『社长、オリンピックだからやってくれ。お国のためだと思って泣いてくれないか』。それで、彼らは自腹を切ってグラビア印刷をしたわけだ」
できあがったポスターは大评判となった。日本中の繁华街、公共の建物、交通机関に贴りだされ、人々は2年后に东京でオリンピックが开かれることを现実として认识した。
ライトパブリシティの社长室には、陆上のスタートダッシュのポスターがオリンピックの闭幕后も长い间、ボロボロになるまで饰ってあった。东京オリンピックの象徴ともなった奇跡のポスターの现物がもっとも长期间饰られていたのは、银座のデザインオフィスだったのである。
虫蹿蹿08;※一部『罢翱碍驰翱オリンピック物语』虫蹿蹿08;小学馆虫蹿蹿09;より引用虫蹿蹿09;
*1 グラビア印刷……凹版印刷の一種。金属製のローラー状のシリンダーにくぼみをつけて版をつくり、そこにインキを入れて印刷する方法。くぼみの深浅によってインキの量が変わり、濃淡を表すことができる。微細な濃淡が表現できるので、写真画像の再現性が高い。
*2 オフセット印刷……平板印刷の一種。親油性のインキと水が反発する性質を利用した印刷方法で、凹凸のない薄いアルミ製の版を、インキが乗る部分と乗らない部分に加工して印刷する。版についたインキを、ゴム製のブランケットに転写(オフ)してから紙に印刷(セット)することから、オフセット印刷を呼ばれる。版が直接紙に触れないため、摩耗が少なく、大量印刷に適する。
虫蹿蹿1肠;着者プロフィール虫蹿蹿1别;
のじ?つねよし / 1957年東京生まれ。早稲田大学卒業。出版社勤務などを経てノンフィクション作家に。著書に『キャンティ物語』『食の達人達』『プロフェッショナルサービスマン』『高倉健ラストインタヴューズ』『トヨタ物語』などがある。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。
连载?东京1964オリンピックと「コカ?コーラ」
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